それは、約束のために
「アラスカ」
「え?」
彼が突然つぶやいた、その一言。あまりにも突拍子のない単語だったので、私は思わず聞き返してしまった。
「アラスカは、遠いよな」
「うん、そうだね?」
彼が何を言いたいのかわからない。
「アラスカに、出向することになった」
その言葉で、ようやく事態を理解した。
「……もしかして、更迭?」
「……ああ」
彼は苦々しく答える。
彼が上司のドジの泥を被ることになってしまったのは聞いていた。しかし、実際にこうして処分が下されることになるなんて。
「あれはあなたは全然悪くないことでしょう。それなのに、更迭なんて!」
「それはみんなわかってくれてる。それでも処分が必要なんだ。だから、3年後には必ず呼び戻すと約束してくれたよ」
「3年……」
3年もの間、彼はアラスカに行ってしまうのか。それじゃあ、それじゃあ……。
「それじゃあ、結婚はどうするの?」
思わず口からこぼれた言葉を後悔する。これじゃあ私、自分のことしか考えてない。
「無かったことにするしかない」
その言葉は、私の心を地面に叩き落とした。私は泣きそうだったが、彼も涙を我慢してるのがわかった。だから、必死に感情をコントロールした。彼は続ける。
「君には君の人生がある。アラスカは、とても着いて来てくれ、なんて言えるところじゃない」
「だけど…!」
「君は君のキャリアを諦められるのかい?」
「!……」
「そこで即答できないんだったら、アラスカなんて着いて来ちゃダメだ」
確かに私には私のキャリアがあった。大学在学中から始めた小さな事業だったが、丁寧に仕事をすることを心がけ、事業を回し続けるには十分な数のお客様がいて下さる。人数は多くないが、従業員だっている。それらを即答でどうにかするなんて、できるわけが無かった。
だけれど、彼が大事だ。若くして事業主なんてやっていると、男性から受ける反発は強い。必要以上に小さく見られたり、大きく見られたり。そんな中で、彼はちゃんと等身大の私を見てくれた人だった。
「一晩、考えさせて」
そう言って、その日は彼と別れた。
その日の夜、ベッドに潜り込みながら、彼との出会いのことを考えた。彼とはネット経由で知り合ったのだ。
私はその頃、毎日写真を撮ってはブログに載せるということをしていた。そのブログは完全に趣味のブログで、仕事関係の人には一切教えていなかった。仕事関係のブログと比べるとアクセス数はないに等しかったが、それゆえ安心して日常の一コマを載せていられた。その『裏ブログ』にコメントをくれたのが、彼だった。
「毎日掲載されるあなたの写真が好きです。視点が素敵だと思います」
そのコメントに、私は柄にもなく舞い上がった。視点が素敵、と言ってくれたのが何よりも嬉しかった。最初のうちは、ありがとうございます、みたいな返信しかしなかったけど、少しずつ打ち解けてきて、会ってみようという話になるまでそんなに長い時間はかからなかったように思う。会ってみたらもっと話が盛り上がって、すぐに付き合い始めることになったのだ。
本当はもっと警戒するつもりだった。けれども、彼の静かな語り口と、それに見合わない情熱的な言葉に、なんだか安心感を覚えてしまった。あまりにも都合が良すぎると思ったりしたけれど、仕事でもなんでも、ものごとはうまくいくときには本当にうまくいくのだ。彼はそういう、絶対に乗り逃しちゃいけない電車だった。
私はパソコンで自分の裏ブログを開いた。彼と付き合い始めてから3年、その間はほとんど更新しなかったブログだけれど、彼と付き合い始める前の記録はしっかりと残ってる。それらを読んで、涙が出てきた。そして、それらを読み返してみて、私が彼に惹かれた理由がはっきりわかった。私は、彼が私と同じものを見ていてくれてるから、彼に惹かれたのだ。
例えば、ガラスグラスについた水滴の綺麗さ、ショーウィンドウに映る木影の暖かさ、静かに降る雪の切なさ、そういったものを切り取るつもりで私はシャッターを切っていた。彼は私が切り取りたかったものを、私の写真を通して確かに見てくれていたのだ。
そして仕事のことを考えた。仕事は、捨てられない。私たちの仕事を喜んでくださるお客様、そして着実に仕事をこなしてくれる部下達、どちらも私の大切な大切な宝物だ。それを捨てていくなんてことはできない。
…、結論は出た。
その翌日、再び時間を作って彼と話をした。私の結論は、シンプルなものだった。
「私、あのブログを再開しようと思うの」
「どういうことなんだい?」
「つまりね、また私があのブログに写真を載せて、あなたがそれにコメントをしてくれて。そういう関係に戻りたい」
「……」
「あなたが言う通り、私、仕事は捨てられないわ。だけど私はやっぱりあなたが好き。それは、あなたが写真を通して私と同じものを見ていてくれてるってわかったから。だから、あなたがアラスカに行っている間、私はまた写真を撮って、あなたに見てもらいたいものを写し続けるわ。それにあなたが時々コメントをくれて。そうしながら、あなたが帰ってくるのを待っていたい」
そこまで話をして、私は彼の返事を待った。その時間は、とても長く感じた。彼が小さく息をつく。
「そうか。わかったよ。でも、ひとつだけ条件を付けさせてもらってもいいかな?」
「どんな条件?」
私は震えながら訊いた。
「僕と結婚してほしい」
「え?」
「僕も、君と同じものを見ていたい。アラスカに行ってそれはできなくなってしまうと思っていたけれども、君がブログを通じて僕にそれを見せてくれるというのなら、とても嬉しい。そして君が待っていてくれるというのなら、僕は君に約束をしたい。それは、帰ってきたら結婚しよう、という約束じゃなくて、結婚そのものを約束にしたい。僕が必ず君のところに帰るという約束として、結婚したい」
結婚そのものを約束にしたい。彼の静かな口調から紡がれた言葉が、私の胸に沁みた。そうだ、こういうところも、彼はとても魅力的なのだ。
「うん、ありがとう。私も約束する。あなたを待ってる約束として、結婚するわ」
涙があふれてきた。そんな私を見て、彼は静かに頭を撫でてくれた。
###〈今週のお題〉結婚を決めた理由