つくりものがたりにっき

創作文章を載せているブログです

今はもうない

『この先、今はもうない』
そんな看板が掛かった扉を発見したのは、本当にただの偶然だった。
夕方、いつもの帰り道、夕立に見舞われある建物で雨宿りをした。そこでカバンを拭くついでにゴーグルも拭いたのだ。そのためにゴーグルを外したら、壁だったはずのところに扉があった。そこに不思議な看板が掛かっていた。
メカニズムは単純だ。ゴーグルに映る拡張現実で、本当は扉があったはずのところに壁を映していたのだ。だがこのご時世、ゴーグルを外す人はめったにいない。寝ながらかけていられるゴーグルだって実用化されてから随分経つ。僕だって、たまたま雨に濡れたゴーグルを拭こうと思わなければこんなところでゴーグルを外すことはなかった。
それに、現実にあるオブジェクトをARで隠すことは違法だ。事故につながる。
この先に何があるのか?現時点で違法なのだから怪しいものであるのは間違いない。だが、僕はそれを確かめてみたいと思った。それは、札に書かれたキーワードが僕の心にひっかっかったからだ。『今はもうない』。これは、今から30年くらい前に活躍した僕が好きな作家の作品のタイトルだ。今はもうない。一体何がないのか。僕は扉を開ける決心をした。
扉を開けると、そこには古びた急な階段が続いていた。この先を進むのにゴーグルをかけるべきか迷ったけれど、この扉の隠され方を考えるとかけない方がいいのだろう。ゴーグルは内ポケットにしまって進むことにした。
途中で何度も折れている薄暗い階段をどのくらい登ったことだろう?感覚としては3階以上は登っているはずだ。いい加減息も上がってきたところで、扉に突き当たった。そこにはまた看板がかかっていた。『今はもうない』。僕はその扉を開けた。
カランカラン、そんな鈴が鳴った。扉を開けきると、そこは一見喫茶店のように見えた。コーヒーのいい香りもする。もう夕立は上がったのか、西日が綺麗に店内に差し込んできていて、とても落ち着いた雰囲気に見えた。
僕は拍子抜けした。あの階段の先に何があるのか想像しながら進んできたけど、こんな綺麗な場所に出るとは思っていなかったのだ。
「いらっしゃい。おや、初めての方だね」
店の奥からマスターと思しき人が出てきて、僕にそう声をかけてきた。
「あの、たまたまここにきてしまったのですが、ここは喫茶店ですか?」
僕がそう尋ねると、件の人物はにっこり笑いながら、「そう、ここは喫茶店、今はもうないだよ」と答えた。
「とりあえず、そちらのお席にどうぞ」
そう勧められて、僕は細かいことを考える前にテーブル席に座った。
「メニューはこちらになります」
マスター(喫茶店という話だから、マスターでいいだろう)がお冷とおしぼりと一緒にメニュー表を持ってきた。革製の表紙で出来た、使い込まれた感じのするメニューだった。なんだか流されっぱなしではあるが、そもそもこの店の名前に流されてここまできてしまったのだ。ここはこのまま流され続けるのが正解だろう。僕はメニュー表を開いた。どのメニューも安い。30年くらい前のまま物価が止まってしまった感じだ。
「じゃあ、このオリジナルブレンドのコーヒーを」
「かしこまりました」
僕の注文を受けて、マスターはカウンターの奥に引っ込んだ。
「ここへは誰かの紹介で?」
マスターがコーヒーを入れながらそう声をかけてくる。
「いえ、たまたま見つけたんです」
「そうか。お客さん、アレをしてないからここを見つけられたんだね。今時はアレをしていない人はもうすっかり珍しくなってしまったねぇ」
「アレ?ああ、ゴーグルのことですか。普段はしていますよ。本当にたまたま、ここの前で外しただけです」
そう言いながら、僕は内ポケットにしまったゴーグルを取り出してマスターに見せた。
「ああ、そういう偶然もあるんだねぇ。私はアレが嫌いだからさ」
「マスターが今かけているのもゴーグルでは?」
「いや、これは本当にただのメガネだよ。アンティークだ」
「そうなんですか。初めて見ますよ」
「お客さんはお若いからねぇ」
マスターはそう言ってくっくと笑った。そんなことを言っているマスターは、年齢不詳だ。20代にも、40代にも、60代くらいにも見える。
「でも、どうしてわざわざ入口を見えなくしているんですか?」
これは一番の謎だった。それが違法行為であることに触れるのは憚られたが、だが、何の事情があってこんなことをしているのか?
「言っただろう?私はアレが嫌いなんだよ。だから、アレじゃあ見えない店をやりたくなったんだ」
「だから、『今はもうない』ですか?」
「お、知ってるの?森博嗣
そこまで話したところで、マスターがブレンドコーヒーを持ってカウンターから出てきた。
「はい。昔の作家だけど好きですね。ここへ来たのも、この店名があったからですよ」
僕はそう素直に答えた。そんな僕の前に、マスターがコーヒーを置く。その香りは、僕を上機嫌にさせるのに十分なものだった。
「マスターは『今はもうない』がお好きなんですか?」
今度は僕から質問する。マスターは意地悪そうに笑って答えた。
「いや、その作品はあまり。あの作家は他にもっと素晴らしい作品がたくさんあるよ」
「そうなんですか」
「ただ、この店のことを考えるとね、それ以外にしっくりくる店名がないんだよ」
「なるほど」
僕はコーヒーに口をつけた。それは香りから分かっていたことだけれど、とても美味しかった。
「なぜARがお嫌いなんですか?」
僕のその質問に、マスターはまた笑った。でも、今度は何かを隠そうとした笑いに見えた。
「そうだね。一言で言うなら、『わかった気になる』ところが嫌かな」
「どういうことですか?」
「アレは現実にあるものの他にいろいろなことが見えるだろう?この店は美味いとか不味いとか。そういうのを見てその気になってしまうことが嫌なんだよ」
「なるほど」
僕は物心ついた頃からゴーグルをかけている。だから、そんな発想自体がなかった。
「アレのせいで、人類は随分鈍感になったと私は思うよ。例えば、そう、その窓を見てごらん」
マスターはそう言って、ある窓を指差した。僕は素直に従って、その窓に目をやった。
まぶしい。
夕立明けの西日が差し込むその窓は、太陽が直接見えてしばらく他のものが見えなかった。それからふと店内を見回す。西日に焼けた僕の目には店内があまりに暗くてはっきりものが見えなかった。でも、その影が何かを思い出させて、僕の胸になにかが湧き上がってきた。今まで感じたことがない類の感情だった。
「その顔、君は感じたみたいだね」
そんなマスターの声で、そちらの方に向き直る。
目もだいぶ慣れてきて、再び店内がよく見えるようになった。マスターはニヤリと笑っていた。
「今のはなんなんですか?」
「ただの夕日だよ。でも、それがこんなにも美しいことを、今のやつらは大抵忘れてしまっている。それが鈍感ってことさ」
「最近のゴーグルは強すぎる光を感じると、自動的に遮光するように作られてます。僕はこんな強い光を感じたのは初めてです」
「最近のアレはそんな機能まで付いてるのか。ますます嫌いになったよ」
そう言ってマスターは笑った。
「僕も、ちょっと嫌いになりました」
僕も笑った。
コーヒーを飲み終え、料金を払い、僕は店を後にした。
僕が去る前に、マスターは念を押してこう言った。
「わかってると思うけど、この店のことは」
「ええ、ネットには書きません」
「ありがとう」
「また来ます」
「ありがとう」
また行く、と言ったのは本気のことだ。でも、あんなに贅沢な時間を毎日過ごすのはちょっともったいない。
あの店に行く日のルールを作らねば、と僕は思っている。そしてそのスケジュールは、決してスケジュール帳には記入しないで、自分だけで覚えておくように。
多分、そういう付き合いをするべきものなのだろう。あの店は。