つくりものがたりにっき

創作文章を載せているブログです

最後に聴いていたい歌

 私は仕事のチャットを終えた。これで今日もひと段落だ。息をついて、居間に向かう。

 今の世の中は便利になった。インターネットの発達のおかげで、家にいたままで仕事をするのは難しくなくなった。通勤をしなくて済む、というのは、障害を持つ私にとっては大きな利点だ。

 居間のソファに座る。そして、毎日見ているBDを再生する。大型テレビにすっかり見慣れた楽団が映った。

 

Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium

Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum!

 

 歌いだされたのは、あの有名なベートーベン作曲の歓喜の歌だ。楽団の映像とともに歌詞が字幕で表示される。心に響く素晴らしい音楽に、私はしばしひたった。このように、毎日この歌を聴くのが私の日課だった。

 有名な話ではあるが、ベートーベンは音楽家でありながら耳が聞こえなくなるという障害を背負い、しかしそれでもこのような素晴らしい曲を書き上げた。耳が聞こえなくなった時の彼の絶望はいかなるものか。そしてその絶望の中から生まれたこの歓喜の歌のなんと素晴らしいことか。この歌が、毎日私に勇気をくれるのだ。

 6年前、私はある進行性の病気にかかった。その時に医者に宣告された。これから耳が聞こえなくなると。私は絶望した。なぜ私だけがこんな目にあうのかと天を呪った。

 だんだん耳が聞こえづらくなり、恐怖と絶望が深くなる中、母がある場所に連れ出してくれた。それが、第9の演奏会だった。

 最初は腹が立った。もうすぐ耳が聞こえなくなる人間をわざわざこんな場所に誘うとは、と。だが、その怒りはぶつける間もなく昇華された。その時に聴いた歓喜の歌によって。同時に母の気持ちがわかった。耳が聞こえなくなる前に、素晴らしい音楽を聴いて欲しかったのだろう。

 私は考えた。今後耳が聴こえなくなり、音楽を聴くことは出来なくなってしまう。だが、音楽を覚えていたら頭の中でそれを楽しむことは出来るはずだ。では、いつまでも覚えていたい歌とは、最後に聴いていたい歌とはどんな歌なのか?

 その答えは、歓喜の歌だった。

 私は歓喜の歌のBDを手に入れ、決して忘れないようにと願いながら聴き込んだ。すでに聞き取りにくい耳だったが、わからないところは何度も再生しなおした。そしてこの歌の全てを覚えきった頃、私の耳は聴こえなくなった。

 それから毎日、このBDを再生している。そうすると、映像にのせて私の頭の中にあの素晴らしい歌が聴こえ始めるのだ。その時だけは、自分の耳の事も何もかも忘れて歌に聴き入る。

 忘れたくない、そしてきっと忘れられない、最後に聴いていたい歌。私が生きている限り、聴き続けよう。

 

###〈今週のお題〉私のテーマソング

あけみのトリック

『いつものことだけどね……』
 私は内心そのように思いながら、暗い洞窟の中を歩いていた。手に持った懐中電灯の明かりだけが足元を照らしている。
「ゆみちゃん、怖いね……」
 そう言いながら私の左肘をつかんでいるのは、幼馴染のあけみだ。彼女は懐中電灯を持っていないので、私からはぐれてしまっては困る。ちゃんとはぐれずについて来てほしい。だが、そもそも女二人で洞窟探検なんてことになったのは、あけみの超理論から始まった。

「あの洞窟の中にね、漆黒の翼を持った天使がいるのよ」
 あけみは真顔でそうきっぱりと言い切った。この子とは付き合いが長い。だからこうした世迷言にもすっかり慣れてしまっていた。この子はちょっと変わった子なのだ。
「その漆黒の翼を持った天使は、悪魔にあの洞窟に封じられてしまったのよ。白かった翼が輝きを失ってしまうほど、長い長い時を」
「で、今度はどうするっていうの?」
 この子がこうしたことを言う時、そこには必ず何かしらの行動が伴う。それは経験上よく知っていた。
「助けてあげたい!」
 やっぱり。
「でも私一人じゃ不安だから、ゆみちゃんもついて来て」
 そしていつもこうなるのだ。私も必ず巻き込まれる。私は、こういう時の彼女の頼みを断れたことはない。
「わかったよ、わかったから。一緒に行ってあげるからまずそのパンプスをスニーカーに履き替えてきな」
 そうして、今私たちは洞窟にいるのだ。

「それで、その天使はどこにいるの?」
「この洞窟の奥深くだよ。湧き出してる泉があって、その底に封じられているの」
「ふーん」
 私はいつも不思議に思う。ちょっと聞いただけではハチャメチャを言っているようなこの子だが、こうした発言が外れたことは一度もない。今度もきっと、奥深くに泉があるのだろう。
 30分近く歩いた。足元が悪いからそう早くは歩けていないだろう。時間の割には深くまでは潜っていないはずだ。そこに、確かに泉があった。
「あった!ここ、照らし続けててね」
 そう言ってあけみは、スカートの裾が濡れるのも構わずに泉の中に入っていった。突然深くなったりしていないか心配だったが、とにかくまずはと思って彼女の少し前を懐中電灯で照らし続けた。
「ウーラーリ、ヴィシャヤ、ハルプンティーラ、ワーラーマ」
 こういう目的地に着くと、彼女はいつも不思議な呪文を唱える。そして、私がいつも待ち望んでいた時がやってくる!
「アウオーリ、デシャルト!」
 あけみがひときわ大きくそう唱えると、泉に光が差し込んできた。そして、ばさっと大きな羽音がして、何かが上の方へ飛んで行った。
「よかった。漆黒の翼は光を浴びて白く輝き、天に昇っていったわ」
 光の中、あけみが満面の笑顔で言った。その笑顔を胸に焼き付けた瞬間、また洞窟に闇が戻った。
 この不思議のトリックはわからない。でも私は、いつもこの彼女の笑顔を見たいから、こうしている。きっと届くはずがない、そんな諦めがいつもあるから、余計にこの笑顔が尊い。

それは、約束のために

「アラスカ」

「え?」

 彼が突然つぶやいた、その一言。あまりにも突拍子のない単語だったので、私は思わず聞き返してしまった。

「アラスカは、遠いよな」

「うん、そうだね?」

 彼が何を言いたいのかわからない。

「アラスカに、出向することになった」

 その言葉で、ようやく事態を理解した。

「……もしかして、更迭?」

「……ああ」

 彼は苦々しく答える。

 彼が上司のドジの泥を被ることになってしまったのは聞いていた。しかし、実際にこうして処分が下されることになるなんて。

「あれはあなたは全然悪くないことでしょう。それなのに、更迭なんて!」

「それはみんなわかってくれてる。それでも処分が必要なんだ。だから、3年後には必ず呼び戻すと約束してくれたよ」

「3年……」

 3年もの間、彼はアラスカに行ってしまうのか。それじゃあ、それじゃあ……。

「それじゃあ、結婚はどうするの?」

 思わず口からこぼれた言葉を後悔する。これじゃあ私、自分のことしか考えてない。

「無かったことにするしかない」

 その言葉は、私の心を地面に叩き落とした。私は泣きそうだったが、彼も涙を我慢してるのがわかった。だから、必死に感情をコントロールした。彼は続ける。

「君には君の人生がある。アラスカは、とても着いて来てくれ、なんて言えるところじゃない」

「だけど…!」

「君は君のキャリアを諦められるのかい?」

「!……」

「そこで即答できないんだったら、アラスカなんて着いて来ちゃダメだ」

 確かに私には私のキャリアがあった。大学在学中から始めた小さな事業だったが、丁寧に仕事をすることを心がけ、事業を回し続けるには十分な数のお客様がいて下さる。人数は多くないが、従業員だっている。それらを即答でどうにかするなんて、できるわけが無かった。

 だけれど、彼が大事だ。若くして事業主なんてやっていると、男性から受ける反発は強い。必要以上に小さく見られたり、大きく見られたり。そんな中で、彼はちゃんと等身大の私を見てくれた人だった。

「一晩、考えさせて」

 そう言って、その日は彼と別れた。

 

 その日の夜、ベッドに潜り込みながら、彼との出会いのことを考えた。彼とはネット経由で知り合ったのだ。

 私はその頃、毎日写真を撮ってはブログに載せるということをしていた。そのブログは完全に趣味のブログで、仕事関係の人には一切教えていなかった。仕事関係のブログと比べるとアクセス数はないに等しかったが、それゆえ安心して日常の一コマを載せていられた。その『裏ブログ』にコメントをくれたのが、彼だった。

「毎日掲載されるあなたの写真が好きです。視点が素敵だと思います」

 そのコメントに、私は柄にもなく舞い上がった。視点が素敵、と言ってくれたのが何よりも嬉しかった。最初のうちは、ありがとうございます、みたいな返信しかしなかったけど、少しずつ打ち解けてきて、会ってみようという話になるまでそんなに長い時間はかからなかったように思う。会ってみたらもっと話が盛り上がって、すぐに付き合い始めることになったのだ。

 本当はもっと警戒するつもりだった。けれども、彼の静かな語り口と、それに見合わない情熱的な言葉に、なんだか安心感を覚えてしまった。あまりにも都合が良すぎると思ったりしたけれど、仕事でもなんでも、ものごとはうまくいくときには本当にうまくいくのだ。彼はそういう、絶対に乗り逃しちゃいけない電車だった。

 私はパソコンで自分の裏ブログを開いた。彼と付き合い始めてから3年、その間はほとんど更新しなかったブログだけれど、彼と付き合い始める前の記録はしっかりと残ってる。それらを読んで、涙が出てきた。そして、それらを読み返してみて、私が彼に惹かれた理由がはっきりわかった。私は、彼が私と同じものを見ていてくれてるから、彼に惹かれたのだ。

 例えば、ガラスグラスについた水滴の綺麗さ、ショーウィンドウに映る木影の暖かさ、静かに降る雪の切なさ、そういったものを切り取るつもりで私はシャッターを切っていた。彼は私が切り取りたかったものを、私の写真を通して確かに見てくれていたのだ。

 そして仕事のことを考えた。仕事は、捨てられない。私たちの仕事を喜んでくださるお客様、そして着実に仕事をこなしてくれる部下達、どちらも私の大切な大切な宝物だ。それを捨てていくなんてことはできない。

 …、結論は出た。

 

 その翌日、再び時間を作って彼と話をした。私の結論は、シンプルなものだった。

「私、あのブログを再開しようと思うの」

「どういうことなんだい?」

「つまりね、また私があのブログに写真を載せて、あなたがそれにコメントをしてくれて。そういう関係に戻りたい」

「……」

「あなたが言う通り、私、仕事は捨てられないわ。だけど私はやっぱりあなたが好き。それは、あなたが写真を通して私と同じものを見ていてくれてるってわかったから。だから、あなたがアラスカに行っている間、私はまた写真を撮って、あなたに見てもらいたいものを写し続けるわ。それにあなたが時々コメントをくれて。そうしながら、あなたが帰ってくるのを待っていたい」

 そこまで話をして、私は彼の返事を待った。その時間は、とても長く感じた。彼が小さく息をつく。

「そうか。わかったよ。でも、ひとつだけ条件を付けさせてもらってもいいかな?」

「どんな条件?」

 私は震えながら訊いた。

「僕と結婚してほしい」

「え?」

「僕も、君と同じものを見ていたい。アラスカに行ってそれはできなくなってしまうと思っていたけれども、君がブログを通じて僕にそれを見せてくれるというのなら、とても嬉しい。そして君が待っていてくれるというのなら、僕は君に約束をしたい。それは、帰ってきたら結婚しよう、という約束じゃなくて、結婚そのものを約束にしたい。僕が必ず君のところに帰るという約束として、結婚したい」

 結婚そのものを約束にしたい。彼の静かな口調から紡がれた言葉が、私の胸に沁みた。そうだ、こういうところも、彼はとても魅力的なのだ。

「うん、ありがとう。私も約束する。あなたを待ってる約束として、結婚するわ」

 涙があふれてきた。そんな私を見て、彼は静かに頭を撫でてくれた。

###〈今週のお題〉結婚を決めた理由